南アジア地域で未発見・未調査遺跡の探検調査活動を実践してきたNPOです

NPO設立まで

探査計画の成り立ち

 これまでは法政大学探検部の手で長年続けられてきたスリランカの密林遺跡探査だが、その計画のそもそもの発端は、1969年の「法政大学インド洋・モルディブ諸島調査隊」(岡村隆隊長、岡雅幸、杉本啓郎)によるスリランカでの活動だった。

 この学生隊は、当時鎖国状態であったモルディブ共和国への入国交渉のため長期のスリランカ(当時の国名はセイロン)滞在を余儀なくされていたが、その間を利用して密林地帯のマハウェリ川をゴムボートで下る計画を実行。結果的には事故で中断したものの、ジャングルに埋もれる遺跡群や地域についての情報収集を進め、地図や資料も購入も購入して、モルディブ調査を終えたあと帰国した。
 このときの体験と情報から、スリランカ中東部での密林遺跡探検計画を提唱した岡村を中心に、部内に「セイロン遠征準備会議」が設けられ、研究を進めた結果、1973年夏に岡村隆隊長(OB)、増永憲彦副隊長、伊藤修、高月真主幸、甲斐哲夫、八木美樹男、佐藤英郎の7名から成る「セイロン島密林仏跡探査隊」の現地入りが実現した。

 この隊は法政大学内では派遣本部長の鶴谷研三郎教授(探検部部長)、同副本部長の川成洋・助教授(部顧問=当時)のほか、学術顧問を委嘱した地理学科の三井嘉都夫、市瀬由自、小川徹、渡辺一夫(のち探検部部長)の各教授の支援を仰ぎ、現地では政府考古局のほか、セイロン大学ペラデニア校(現ペラデニア大学)地理学科のタンビアピッライ教授、考古学科のプレマティレカ教授らの指導助言を受ける幸運にも恵まれて、足掛け半年に及ぶジャングルでの活動を精力的に推し進めることができた。その結果、ヘンベラワ村、ヤックレ村を中心とするマハウェリ川中流域に31ヵ所の遺跡地点を確認、そのうち13ヵ所が新発見という成果をあげたのだった。

継続調査隊の派遣

 現地では政府考古局をはじめ研究者らも注目し、新聞でも大きく報じられた最初の探査活動だったが、それによって明確になったのは、スリランカの遺跡とその調査や研究をめぐるさまざまな課題だった。
 発展途上の国であり、予算や人員の不足から、重要さはわかっていても実地調査が思うにまかせない――そんな現地の研究者らに代わって、われわれがこの地域の歴史を掘り起こそう。そうした意識が部内に醸成されていった。学内では新たに南アジアの遺跡に詳しい小西正捷教授(のち立教大学教授)を学術顧問に迎え、日本観光文化研究所(宮本常一所長)の援助で調査報告書『セイロン島の密林遺跡』を同研究所から刊行したのち、第2次隊が出発することになった。

 第2次隊は1975年、前回の隊員だった八木美樹男を隊長に、角谷定俊副隊長、堀江信介、東昌宏、執行一利ら学生5人のほか、前回隊長でフリーライターとなっていた岡村隆が顧問として同行し、6人で足掛け4ヵ月間、主にマハウェリ川右岸とマドゥル川流域で活動。その結果、ピンブラッターワ村を中心とする地域で27ヵ所の遺跡を調査することができた。

 さらにその翌年(1976年)には、田中憲を隊長に、下坂充副隊長、深谷行弘、境雅仁の学生4人が第3次隊として遠征。マナカ村、カドゥルピティア村を中心とするマハウェリ川左岸をフィールドに、4ヵ月間で38ヵ所もの遺跡を調査するという実績を上げた。

 これら第2次隊と第3次隊の調査の成果は、第1次隊と同様に日本観光文化研究所から報告書『セイロン島の密林遺跡 part II』(1978年刊)として出版されたほか、一般紙誌でも紹介され、顧問の小西正捷教授の仲介で南アジア研究者らの会合でも発表を行なうなど、その活動は現地考古学関係者ばかりでなく日本でも関係者らから一定の注目と評価を受けるに至った。

 その後、この地域の遺跡探査は、文化人類学の研究者としてスリランカ研究に着手した執行一利(第2次隊隊員、その後ペラデニア大学に留学)に引き継がれる。執行は第1次、第2次隊が調査したマハウェリ川右岸のジャングルで未踏査のまま残されていた地域を、1979年末から翌80年の2月にかけて探査し、24ヵ所の遺跡を調べて年来の宿願を果たした。第4次の活動にあたるこの調査の概要は、今のところ『法政大学探検部30年史』(1995年刊)にのみ収められているが、この頃と時を同じくしてマハウェリ河流域では外国援助による大開発が進み、ジャングルは切り開かれつつあった。そのため、結局はこれで、1973年以来の私たちのマハウェリ川流域探査は一応の課題を果たして収束を見ることとなった。

ルフナ地方への転進と大発見

 開発が進み、濃密なジャングルが大規模に伐採されたマハウェリ川中流域は、もはや「密林遺跡探査」のフィールドではなくなったが、スリランカにおける未発見遺跡の探査の必要性がそれで消えたわけではもちろんなかった。
 1981年、執行がコロンボを訪ねた際に、考古局のシリソマ副局長から「南東部のジャングルには、まだまだ埋もれた遺跡がたくさん眠っているのだが……」と探査続行を示唆されたことが発端となって、結果的にはその後、第5次隊以降の隊がルフナ地方(スリランカ南東部)のジャングルで活動を続けることになった。

 1985年の第5次隊は、執行一利を隊長に、片岡和仁(OB、副隊長)、会田慶宏、和田琢哉、天野賢一、庭野吉広(以上学生)の6名と、途中参加する岡村隆、境雅仁(いずれもOB)で構成された。
 この隊はモナラーガラ県のジャングル最奥の村コティヤガラに基地を置き、主にウィラ川とクンブッカン川に挟まれた地域で活動して、総計51カ所の遺跡を探査したが、そのなかには特筆すべき大発見も含まれていた。

 長年の調査を通じての「最大の発見」と言っても過言ではないその遺跡は、ウィラ川の左岸ジャングルに残されていた釈迦三尊像の磨崖仏遺跡であった。これは、スリランカで今日まで続く上座部仏教ではなく、12世紀に粛正された大乗仏教、しかもその後期に栄え、今日の日本の仏教ともつながりを持つ密教系の仏像遺跡であり、大岩の側面に丸彫りにされた釈迦像と脇侍の菩薩像が良好な状態で残されていた。スリランカ政府考古局をはじめ、発見の報告を知ったヨーロッパの研究者らが注目し、さらに詳しい報告を求めてきたのも当然であった。

 この隊の調査ではまた、南方クンブッカン川の流域で大規模な寺院遺跡を多数発見、調査し、この地域がスリランカの、ひいては世界の仏教史上も、きわめて重要な地域であることが改めて確認された。

考古局との合同調査と遺跡破壊の現状

 スリランカ政府考古局は、長年の関係からルフナ地方での探査活動が必要なことを示唆し、それに応じて始めたのが1985年の活動だったが、それから7年後の1992年、今度は正式な要請が、再びスリランカ政府考古局からもたらされた。

 新しい要請は、1985年に私たち日本隊がウィラ川流域で発見した釈迦三尊像の磨崖仏「ウィラオヤ・ブドゥパトゥンナ遺跡」を「再発見」するため協力してほしいというもので、その背景には、考古局が同遺跡の確認調査隊を数度にわたって派遣しながら、目的を果たせずに終わったという経緯があった。同遺跡はジャングルの最奥の村から河床をたどって徒歩で丸一日の場所にあり、アプローチも困難な上、付近に目印も少ないことから、考古局独自では現場に到達できなかったものと思われる。

 さらにその後は、スリランカでは政府軍とタミル人過激派との戦闘や、シンハラ人極左ゲリラのテロ活動などで政情不安が深刻化し、考古局も調査どころではない状況に陥っていた。その状況がようやく落ち着いた段階で調査計画が再浮上し、今度は確実に遺跡到達を果たすため、日本隊との合同調査が提案されたという経緯だった。

 それに応じて調査隊が出た翌93年は、法大隊がスリランカでの遺跡探査を始めた1973年から数えて、ちょうど20年目の節目の年にも当たっていた。その最初の発案者で第1次隊の隊長を務めた岡村隆(作家・編集者)を隊長に、前回の第5次隊隊長を務めた執行一利を副隊長にして組織された第6次隊は、遺跡発掘の専門家となっている境雅仁、建築設計の専門家として遺跡測図作成に長けた天野賢一、第5次隊隊員の和田琢哉ら経験者のOBに、日ごろ現役学生の指導に当たるOBの武内勲と、石田祐造,山嵜浩司の2学生が加わり、総勢8人の隊となった。これにコロンボから考古局調査課長のS・ディサナヤカ氏以下4人の考古局員、『ランカドゥイーパ』紙記者らが加わり、探査が開始された。

 ところが、基地の村を出発して2日目に「再発見」を果たした釈迦三尊像の磨崖仏遺跡は、盗掘者によって無残に破壊されており、現地考古局の8年越しの悲願に冷水を浴びせる結果となってしまった。世界の仏教史上も重要な遺跡であり、近年にない大発見だった遺跡が、しかもその発見後に破壊されていたというこの顛末は、のちに現地紙や日本の読売新聞で大きく報道され、多くの関係者の悲憤を呼ぶところとなった。
この隊はその後、考古局のスタッフがコロンボに引き上げた後も、独自にクンブッカン川流域を探査し、4ヵ所の重要な遺跡を確認したほか、多くの遺跡を調査して帰国した。

十年の歳月を経て

 第5次・第6次隊における活動の成果は、報告書『スリランカの密林遺跡』(和英対訳)として出版され、現地考古局へ報告がなされたが、その後も「クンブッカン川の南に広がるヤラ国立公園内には数多くの遺跡が埋もれている」との情報から、引き続き1996年に第7次隊を派遣すべく準備を進めていた。しかし、その後もスリランカの政情は安定しないばかりか、南東部のジャングル地帯にLTTE(タミル・イーラム開放の虎)のゲリラが出没するなどの情報も寄せられていた。そしてついにはコティヤガラ村が襲撃され多数の村人が死傷する痛ましい事件もおこるなど、遠征隊の派遣を見送らざるを得ない状況が続いていた。こうした中でも、遠征隊関係者で組織された「スリランカ密林遺跡研究会」を中心として、引き続き遠征隊の可能性を探ると共に、お世話になった村への恩返しをと、コティヤガラ村への井戸掘り資金の援助を行うなど(コティヤガラ基金)、日本国内からできるサポート活動を継続した。

 そうしたなか、2002年2月より政府とLTTE側との間で公式の停戦が始まり1年以上の停戦が守られたこと、コティヤガラ村周辺でのLTTEの目撃情報もなくなるなどの情勢の変化を受け、遠征隊派遣の機運が高まった。そこで2003年、隊長に執行一利、副隊長に須藤あけみ、隊員には、第6次隊隊員の山嵜浩司OBと、川上浩司、小宮幹晃、久武優の3学生が加わり、総勢6名により、第7次隊が組織された。この調査では、現地政府考古局との合同の調査として、はじめてヤラ国立公園内への入域許可を取得し調査を行ったほか、コティヤガラ村周辺域を含め2カ月間に亘る調査を行った結果、涅槃仏を含めた17の遺跡を発見し帰国した。

名称
期間
人員
探査遺跡数
地 域
偵察隊  1969.4〜6 3
マハウェリ川
第1次
1973.7〜12
7 30
マハウェリ川右岸
第2次  1975.7〜10 6 37
マハウェリ川右岸
第3次
1976.8〜11
4 38
マハウェリ川左岸
第4次
1979.12〜80.3
1 24
マハウェリ川右岸
第5次
1985.6〜10
8 51
ルフナ地方
第6次
1993.8〜9
8 15
ルフナ地方
第7次 2003.7〜9 6 17 ヤラ国立公園 
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