南アジア地域で未発見・未調査遺跡の探検調査活動を実践してきたNPOです

沿革

発端は1969年の活動

 2008年2月26日に正式発足(東京法務局登記)した特定非営利活動法人南アジア遺跡探検調査会は、その成り立ちの経緯をたどれば、1969年に法政大学探検部が派遣した「インド洋・モルディブ諸島調査隊」のスリランカでの活動が、そもそもの出発点となっている。
 この隊は遺跡調査を目的としたものではなかったが、当時鎖国状態にあったモルディブ共和国への入国交渉のため長期のスリランカ(当時はセイロン)滞在を余儀なくされ、その間に隊員が各地の遺跡を巡ったほか、密林地帯のマハウェリ川をゴムボートで下る計画を実行した。川下りは結果的には事故で中断したものの、ジャングルに埋もれる未知の遺跡群や地域について知るきっかけとなり、隊はモルディブへの往復の前後に情報収集を進め、地図や資料も購入して帰国した。
 その体験と情報、資料をもとに、1973年、「法政大学セイロン島密林仏跡探査隊」がマハウェリ河中流域のジャングルで約5カ月間にわたって最初の遺跡探査を実現させ、予想以上の成果と現地機関の評価を受けたことから、以後、同地での活動が継続されることとなった。
 1975年の第2次隊以降は名称を「法政大学スリランカ密林遺跡探査隊」と変え、1976年と79年には同じマハウェリ河流域で、その後はフィールドを南東部のルフナ地方のジャングルに移して、激化した民族紛争の合間を縫う形で1985年、1993年、2003年と、断続的に大がかりな探査活動を続けてきた。

広い背景と連携のもとに

 ただし、これら一連の活動は、隊の派遣母体こそ法政大学探検部となっているものの、当初から一大学の一学生課外団体の枠に縛られた閉鎖的なものではなく、またそれだけで活動を持続できるものでもなかった。
 1973年の第一次隊から東京農大出身の熱帯植物専門家、武蔵野良治氏(熱帯アジアの巨花ラフレシアの日本人初撮影者として知られる)が現地活動に参加し、セイロン大学ペラデニア校(現ペラデニア大学)の考古学科主任教授L.プレマティレカ氏が学術的な後見役を務め、現地新聞が同行取材に入り、現地の地方官庁や在コロンボの日本大使館からも多大な支援を受ける形で活動を続け、1985年以降はスリランカ政府考古局との連携のなか、1993年と2003年には大規模な合同調査を行っている。
 また、国内にあっても、当初から、民俗学者の宮本常一氏が所長を務めた「日本観光文化研究所」が活動を支援し、探検や調査経験の豊かなスタッフが助言、後押しをすると同時に、一次隊から三次隊までの調査報告書は同研究所が発行するという経緯をたどった。
 さらに、現地での調査方法や調査遺跡の分析や研究に当たっては、法政大学教授陣のほか、立教大学の小西正捷教授が学術顧問を務め、成果の発表を、全国の研究者らが集う「インド考古研究会」や、同会の機関誌『インド考古研究』誌上で行うなど、背景に幅広い支援、連携の体制を持つなかで活動してきたと言える。その間には、活動の実質的な母体も、調査隊のOBや関係者の社会人で新たに組織した「スリランカ密林遺跡研究会」へと移行し、日本での研究活動の傍ら、のちのNPO設立につながる「活動母体と活動枠の拡大」が追求されてきた。

広がるフィールドと活動の課題

 一方、スリランカ以外でも、1983年からは会員がモルディブでも仏教遺跡調査を開始したが、これは前年の1982年にノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールがモルディブ諸島南部の無人島、ガン島で「太陽神殿」遺跡を発見したとする報道に端を発している。
 真偽確認のため現地調査に赴いた会員の岡村隆(1969年にモルディブ調査を経験)の活動と、調査記録の分析に当たった小西正捷氏(立教大教授)、さらには朝日新聞の藤木高嶺記者が確認を求めた頼富本宏氏(種智院大教授、現学長)によって、同遺跡は「仏舎利塔」遺跡の間違いであることが確認されたが、そこで課題として浮上したのが、12世紀以前は仏教国であったモルディブの「仏教遺跡」の現状であった。同国での仏教史自体が不明ななか、数多くの遺跡が捨て置かれ、あるいは開発によって破壊されており、出土品の管理も杜撰なため、早急な確認調査や保護の手立てが必要であることがわかった。岡村は1985年と94年にもモルディブの遺跡を調査し、現在までに12島の17遺跡を確認しているが、全島1200余島を数える同国には、さらに多くの遺跡が存在することは確実であり、これらの調査も、南アジア遺跡探検調査会の今後への大きな課題となっている。
※参考文献 T・ヘイエルダール『モルディブの謎』(法政大学出版局、1995)/岡村隆『モルディブ漂流』(筑摩書房、1986)

村々への援助と交流活動も

 さらにまた、これまでの調査隊は、とくにスリランカにおいては遺跡調査だけを行ってきたわけではなく、1973年当時から調査地域のジャングルの村々で住民福利にかかわる各種支援活動を続けてきた。村々は経済状態の悪さから衣料や学用品などの不足が指摘されていたため、各調査隊は出発に合わせて大学内や関係者、支援者間に古着の寄贈を呼びかけ、ノート、鉛筆類の文具メーカー各社にも現物の寄贈を求めて、それらをそのつど、現地で県知事らの立ち会いのもとに住民や学童に配布した。
 また、静岡県の小学校から児童らが描いた絵を託され、現地の学校に展示し、現地の児童の絵を持ち帰って日本側でも展示したほか、現地の学校では特別授業で日本の話をするなど、草の根の文化交流にも力を注いだ。
 1985年以降は、調査地となったルフナ地方が水不足に悩まされていたため、日本で井戸掘りの基金を募り、それをもとに村に3つの共同井戸を完成させた。
 さらに、先のインド洋大津波の被害に際しては、「スリランカ密林遺跡研究会」で支援策が協議され、会員が職場などで呼びかけて衣類やタオル、石鹸などを集め、関連のNGOに依頼して被災地に送るなどの活動を展開した。

開かれた「市民団体」へ

 こうした活動の広がりと、遺跡調査におけるスリランカ政府考古局との連携強化などを背景に、2005年以降は、以前からあったNPO設立の機運が高まり、「スリランカ密林遺跡研究会」を中心に部外の関係者も含めて協議を進めた結果、2007年9月11日には法人成立に向けた設立総会を開くことができた。
法人の名称や目的、事業内容などは、定款に示すとおりにその場で決まったが、このとき「NPO法人化に当たっての最大眼目」とされたのは、(1)これまでの活動母体の枠と活動の枠を完全に取り払い、文字どおり「開かれた市民団体」として出発すること。(2)新たな参加者を多数交えて活動地域や活動の種類を多様化し、それによって会の発展と現地への貢献を図ること――であった。
 名称を「南アジア遺跡探検調査会」として南アジア全域に地域枠を広げ、事業内容に研究や啓蒙、文化財保護や住民福利活動なども盛り込み、法人認可申請へと向かった所以である。

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