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スリランカ概説

スリランカという国

岡村 隆(Takashi OKAMURA)

Researcharea2 スリランカは、インド亜大陸の南端、コモリン岬から見て南東沖のインド洋に浮かぶ島国である。かつてはセイロンと呼ばれたが、1978年、国名を「スリランカ民主社会主義共和国」と改めて今日に至っている。国土面積は約65,600平方キロで、北海道よりやや小さく、総人口は約1700万。首都はかつてのコロンボ(人口約69万)から郊外のスリジャヤワルダナプラ・コーッテ(人口約11万)に移されている。

 島は気候から大きく二つに分けられ、北部から中央東部および南東部にかけての、全島の約4分の3が「ドライゾーン」、中央山岳地帯から南東海岸部にかけてが「ウェットゾーン」と呼ばれる。ドライゾーンは文字どおり乾燥地帯であり、11月から3月にかけての北東モンスーンによって降雨がもたらされるが、耕作には不十分なため耕地面積も人口も少なく、ジャングルの開拓村を中心に、貯水池を利用した水田耕作や焼畑農業がわずかに営まれる程度となっている。

 一方のウェットゾーンは、主に5月から9月にかけての南東モンスーンによってもたらされる雨が土地を潤し、全体に湿潤なため、紅茶、ゴム、ココヤシなどのエステートや天水による水稲栽培が発達し、人口も集中している。

 住民はシンハラ人、タミル人、ムーア人(ムスリム)、マレー人などからなる多民族国家であり、そのうち人口の74%を占めるシンハラ人は、言語系統上、北インドを故地とするインド・ヨーロッパ語族(アーリア)系とされるが、歴史を通じてドラヴィダ系のタミル人など南インド諸民族との混血が進んで、形質人類学上の断定は困難となってきている。しかし、いずれにしても、紀元前6世紀ごろに来島したとされるこのシンハラ人によって、最初の国家建設が行なわれたのが、スリランカの歴史の始まりであった。

 史書「マハーワンサ」(大史)や「ディーパワンサ」(島史)などによれば、来島したシンハラ人は、オーストロ・アジア語族のスリランカ先住民とされるウェッダ族(現在もごく少数が政府指定の居留地に住む)を制圧し、以来2300年間、いわゆる「シンハラ王朝」を継承してきた。紀元前4〜3世紀にインドから伝えられた仏教は、シンハラ人の主要な宗教となり、初期には大乗系から密教に至る各宗派が混在したものの、12世紀以降は、いわゆる正統派上座部の仏教が国教の地位を占めた。現在、ビルマやタイ、カンボジアなどにも伝わる「セイロン上座部」がこれである。

 ところで、古代シンハラ王朝期には、上記のドライゾーンを中心に文明が栄え、貯水池を利用した灌漑農業が発達するとともに、各地に多くの仏教寺院が建立された。しかしその間、南インドからはドラヴィダ系諸王朝の侵入が相次ぎ、シンハラ王朝はそれら外部勢力との抗争を繰り返しながら次第に南部へと落ちのびていく。そして最後には、ウェットゾーンである中央高地のキャンディに王都が移される一方、北部や東部には、ドラヴィダ勢力の中心だったタミル人が定着するに至ったのだった。

 その後、16世紀初めのポルトガルによる侵略を皮切りに、スリランカはオランダやイギリスによる植民地支配の辛酸をなめさせられることになる。

 1815年にはイギリスによってシンハラ王朝最後のキャンディ王朝が滅ぼされ、インドに追放された王に代わって、英国総督がタミル人地域も含む全島の支配者となった。その植民地支配は、それから130年余り、第二次世界大戦後の1948年にスリランカが英連邦内の自治国として独立を果たすまで続いたのである。

 独立後のスリランカは、社会主義政策の試行や多様な外交展開などを通じて新生国家の道を歩きはじめ、一時はその風光や人情の穏やかさから「インド洋の真珠」とうたわれる安定期を誇ったこともあった。しかし1980年代に入って民族紛争が頻発し、タミル・ゲリラによる独立闘争や1993年のプレマダーサ大統領暗殺事件などを経て、政情不安の状態が続く形で今日に至っている。
(1993年当時の原稿です)

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