スリランカ密林遺跡探査隊1993(第6次隊)活動概要
第6次隊隊長 岡村隆(Takashi OKAMURA)
第5次隊の帰国から8年後の1993年、私たちは再びスリランカ政府考古局の要請に基づいて、新たな探査隊をルフナ地方に派遣することになった。
今回の考古局の要請は、1985年に私たちがウィラ川流域で発見したウィラオヤ・ブドゥパトゥンナ遺跡(釈迦三尊像)を「再発見」するため協力してほしいというもので、その背景には、考古局が私たちの帰国後、同遺跡の確認調査隊を数度にわたって派遣しながら、目的を果たせずに終わったという経緯があった。同遺跡はジャングルの最奥の村から河床をたどって徒歩一日の場所にあり、アプローチも困難な上、付近に目印も少ないことから、考古局独自では現場に到達できなかったものと思われる。
その後、スリランカでは政府軍とタミル人過激派との戦闘や、シンハラ人極左ゲリラのテロ活動などで政情不安が深刻化し、考古局も調査どころではない状況に陥った。その状況がようやく落ち着いた段階で調査計画が再浮上し、今度は確実に遺跡到達を果たすため、スリランカ訪問中の執行一利を通じて法大隊との合同調査が提案されたのである。
それに対して、私たちは当初、現地経験のあるOBだけで隊を組織し、短期間の効率的な行動で考古局に協力する計画を立てていた。しかし、探検部内やOB会内部での議論が進むにつれて、学生を含む正規の遠征隊として臨むべしとの声が高まり、結果的にはこれまでの活動を引き継ぐ形の第6次隊が結成されたのだった。

1993年は、私たちがスリランカでの遺跡探査を始めた1973年から数えて、ちょうど20年目の節目の年にも当たっていた。その最初の隊の隊長を務めた岡村隆を隊長に、前回の第5次隊隊長を務めた執行一利を副隊長にして組織された第6次隊は、遺跡発掘の専門家となっている境雅仁、建築設計の専門家として遺跡測図作成に長けた天野賢一、第5次隊隊員の和田琢哉ら経験者のOBに、日ごろ現役学生の指導に当たるOBの武内勲と、石田祐造(3年、部主将)、山嵜浩司(2年)の2学生が加わり、総勢8人の隊となった。
1993年7月24日に先発隊が日本を発ったこの隊の活動の詳細は巻末の「行動記録」に詳しいが、ベースキャンプは前回と同じコティヤガラ村に設置された。この基地に、スリランカ政府考古局探検課の6人のスタッフや新聞記者らとともに本隊が入ったのが8月14日。翌15日には、さっそく釈迦三尊像のあるウィラオヤ・ブドゥパトゥンナ遺跡へと出発した。ところが、2日目に「再発見」を果たした釈迦三尊像は、盗掘者によって無残に破壊されており、現地考古局の8年越しの悲願に冷水を浴びせる結果となってしまったのである。この顛末は、のちに現地紙や日本の読売新聞で大きく報道され、多くの関係者の悲憤を呼ぶところとなった。
その後、考古局のスタッフがコロンボに引き上げてからは、私たち日本側隊員だけでクンブッカン川流域を探査し、4ヵ所の重要な遺跡を確認することができた。さらに、このクンブッカン川流域探査を終えて武内、境、和田、天野のOB 4人が帰国したのちは、残りの4隊員で活動を続行。この報告書に収めたように、考古学的に重要と思われる遺跡を相次いで確認できたが、それらの多くは比較的新しい時期に盗掘されており、遺跡の破壊が予想以上に進んでいることを思い知らされた。また、多数の仏像が岩窟内に安置されているとして、8年前から課題になっていた「ブドゥパトゥンナ・ガルゲー遺跡」についても、正確な情報や適切な案内人が得られないため、探査を断念しなければならなかった。
一方、この第6次隊は、これまでと比べても活動期間が短く、隊員が村人と交流する機会も限られたが、前回隊の実績もあって村人の側からは多くの支援を受けることができた。ハンターや案内人には前回と同じ人物が就き、村の指導者層も変わらぬ協力体制を敷いてくれた。それに対するに、隊の側からは村の学校に学用品を、診療所に医薬品を寄贈するなどの礼で応えたのだった。
また、私たちの滞在中、基地の村ではタミル・ゲリラの襲撃に備えて武装自警団が徹夜の警備体制を敷くなど、緊張した雰囲気も漂っていた。荒々しい自然と歴史の苛酷さの両面から圧迫されて、厳しい暮らしを強いられる村人たちの明日を思わずにはいられない体験ではあった。
隊は9月6日までに総計15ヵ所の遺跡を調査して活動を終え、コロンボで考古局や日本大使館など関係機関に報告と挨拶をすませたのち、9月中に全員が帰国したが、最後に特記すべき事項としては、探査へのGPS導入があげられる。
これは、人工衛星からの電波を利用して現在位置を確認する装置で、ソニーのプロジェクトチームの協力によって現地地図(約6万分の1)が入力してあり、松下電器提供のもう1台と併せてかなり正確な遺跡地点とアプローチルートを記録することができた。
ただし、前回の隊が地図に記録した遺跡地点をGPSで検証してみると、誤差はほとんどなく、コンパスと万歩計を使って位置を割り出していた1973年以来の方法が、かなりの精度を持つものであることを立証する形ともなった。私たちは、過去20年の活動と、その実績についても自信を深めて帰国することができたのである。
第6次隊で調査した主な遺跡(1993年)
1.〈1〉ウェッタンブガラ
ガラと呼ばれる岩丘の東側中腹に、先住民族のウェッダ族によって描かれたと
思われる、象や人物と思われる多数の壁画ががみられた。

ウェッタンブガラ岩絵 | ウェッタンブガラ岩絵 |
2.〈2〉エティモレワッターラマ
岩丘上に仏塔跡などの各遺構が点在し、特に中腹の岩肌には多数の刻文がみられた。

エティモレワッターラマ概念図

エティモレワッターラマ刻文
3.〈3〉ウィラオヤブドゥパトンナ
第5次隊(1985年)の〈21〉を参照。スリランカ政府考古局と合同の再調査。前述のとおり盗掘の被害にあい、無惨な姿をさらしていた。
4.〈4〉ゴーナタブブラ
東西40m、南北350m程の岩盤の上に多数の遺構が確認された。特に、多数の方形上の彫り込み(下図)がみられたほか、刻文も確認された。

ゴーナタブブラ 岩盤上の彫り込み | ゴーナタブブラ 岩盤上の彫り込み群 |

ゴーナタブブタ刻文
5.〈5〉ナーマルポクナ マリガヤ
クンブッカン川流域の、南北200m東西50mの岩丘の北麗のジャングルに広がる遺跡群。
100m四方にわたって石柱群、建造物跡、溜池跡、外壁跡など多数の遺構が見られた。

ナーマルポクナ マリガヤ概念図 | ガードストーン拓影図 |
ガードストーン | ムーンストーン |

スリランカ密林遺跡探査隊1985・1993(第5次・第6次隊)活動報告書
『スリランカ・ルフナ地方の密林遺跡』
RUINS OF THE ANCIENT RUHUNA CIVILIZATION
―in the jungle of Kumbukkan Oya Basin―SRI LANKA
和英対訳版 発行:法政大学探検部 (A4判274項・1999年) 頒価3,000円 メールにてお問い合わせ下さい |
目次
報告書の刊行によせて 鈴木佑司……3
Preface Masatoshi A. KONISHI(小西正捷)……5
Introduction 調査地と調査活動の概要 岡村隆……7
はじめに
スリランカという国
調査地の背景
法大探検部とスリランカ遺跡調査
第5次隊の活動概要 執行一利……11
第6次隊の活動概要 岡村 隆……13
調査隊の組織 派遣本部・隊員……15
【遺跡調査報告編】
前書 ルフナ地方の歴史的意味と調査遺跡 執行一利……18
調査地域全図…… 22
凡 例…… 24
第5次隊(1985年)遺跡調査報告(遺跡一覧)・(概要抜粋)
1.コティヤガラ村西方の遺跡群……25
2.エティモレ村周辺とウィラ川流域の遺跡群……57
3.コティヤガラ村周辺とその南方の遺跡群……85
4.クンブッカン川及びアラコラ川流域の遺跡群……131
第6次隊(1993年)遺跡調査報告(遺跡一覧)・(概要抜粋)
1.コティヤガラ村周辺の遺跡群……181
2.クンブッカン川流域の遺跡群……215
【隊務報告・資料編】
第5次隊・第6次隊 行動記録……250
第5次隊・第6次隊 装備報告……255
第5次隊・第6次隊 食糧報告……258
第5次隊・第6次隊 医療報告……260
第6次隊 記録・測量報告……262
第5次隊・第6次隊 会計報告……266
新聞記事……268
参考文献リスト……270
協賛者芳名録……271
あとがき 天野賢一……273