NPO南アジア遺跡探検調査会が、スリランカ政府考古局とともに8月18日から19日にかけて初踏査したスリランカ南東部ヤラ地方(自然保護区の国立公園)のジャングルに孤立するタラグルヘラ山。山頂はジャングルに覆われた丘陵上に高さ25m×長辺20m×短辺15mほどの立方体に近い巨岩がドンと据えられ、その上にまた7m立方ほどの大岩が載る奇怪な形を呈している。

下の巨岩の北裾には浅い岩窟があり、自然の岩窟の入口庇の岩角に、雨水が洞内に伝い落ちるのを防ぐための「カタ―ラン」という水切り溝が彫られ、床や岩壁に白い古代セメント(石灰岩を焼いて作る)が塗られた跡が残ることから、ここがきちんとした岩窟寺院だったことがうかがえるが、仏像などは残っていなかった。

岩窟寺院の西側を回りこんでジャングルの斜面を登ると、岩の裏側はやや傾斜が緩み、そこに岩盤を彫り込んで作った階段が施されていた。頂上に乗る大岩の下まで続く階段を上ると、北側のちょうど岩窟の真上あたりに仏塔跡があり、完全に崩壊しながらも煉瓦片の低い土盛りが残っていた。ほぼ垂直に切れ落ちる巨岩上の平坦地は6~7m四方ほどの狭さで、崖の縁の岩盤には墜落防御の柵を施したと思われる柱穴の跡が見られた。

仏塔跡の東側で、散乱する煉瓦片の下からは、岩の表面に掘られた刻文が見つかり、5〜6文字ほどが確認できるが、摩耗が激しく判読は不能だった。しかし文字形は初期ブラーフミー文字(古代インドの文字で東南アジアや南アジアの各言語の文字の源流となった)と判断できたため、この仏塔が紀元前3世紀から紀元1世紀ごろにはすでに造られていたことがわかつた。この無人の大密林にも、当時は村や田畑が開け、人々が寺や僧侶を支えるだけの文明が栄えていたのだ。

ところで、タラグルヘラ山を実際に踏査して、もう一つ分かったのは地図の間違いだった。現在のスリランカ政府が発行する「5万分の1地図」では、山頂は800mの等高線の中に描かれているため、標高50m以下のベースキャンプからかなりの登りを覚悟してアプローチしたのだが、水平移動の厳しさで感覚が狂ったのか、その実感がない。頂上で3つのGPSを出して測ると、いずれも240m前後を示している。そこで分かったことは、スリランカ政府が新地図を作るにあたって、英領セイロン政府の「1インチ=1マイル地図」(約6万分の1地図)から不用意なコピーをしたという事実だった。

英領時代には標高もフィートで示され、500フィートの等高線にはその数字が入っていたが、新政府はそれを換算せぬままメートル法の地図に単純コピーしていたのだ。これにはスリランカ政府考古局のスタッフも日本人も大笑いする結果となった。

ただ、たかだか標高240mといっても、ジャングルの大海に屹立する岩峰からの眺めは素晴らしかった。360度、地平線までのジャングルで、南にはごく薄い線のように海も望める。これは小生がこの45年間のスリランカ探検で見たどの景色よりも素晴らしかったということだけは言っておきたい。