8月に派遣予定の「スリランカ密林遺跡探査隊2018」は、去る6月に現地偵察と交渉を終え、活動内容の詳細を決定、現在は7月30日の先発隊出発に向けて最後の準備を進めています。このほど、その「計画書」を発行しましたので、以下に掲載いたします。

印刷版はPDFでもご覧いただけます。 

2018和文計画書  探査予定地域・地図

     

 

                            スリランカ密林遺跡探査隊2018

                                            計 画 書

 

           ――ヤラ国立公園タラグルヘラ山周辺の遺跡探査事業計画――

                  Project of Yala Archaeological Expedition 2018

 

 

                   特定非営利活動法人 南アジア遺跡探検調査会

          South Asian Ruins Exploration and Research Society

                                       (NPO-SARERS)

 

 【調査計画の趣旨】

 特定非営利活動法人「南アジア遺跡探検調査会」はこの2018年夏、スリランカ政府考古局との合同事業として、同国南東部のヤラ国立公園(入域規制区域)における未確認遺跡および未発見遺跡の探検調査を行います。

これは、当NPOが一昨年(2016年)に一度試みながらも目的の遺跡発見に至らなかった探査計画に再度挑戦するもので、前回の失敗を糧に計画を練り直し、新たな態勢で目的を完遂すべく準備を進めているところです。

 周知のように、インド洋に浮かぶ島国スリランカは、古代からの仏教国であり、また東西文化交流の重要な中継地点であったことから、島内には仏教を中心に展開されたさまざまな文化や、人々の生活を偲ばせる遺跡が無数に残されています。それらの遺跡は、同国の貴重な歴史遺産であるばかりでなく、仏教を通じて日本とも深いかかわりがあり、人類共有の文化遺産としても貴重な存在であることは言うまでもありません。

   ところが、そうした貴重な存在であるにもかかわらず、これらの遺跡のほとんどは、いまだ科学の光が当てられないまま、島のあちこちに広がるジャングルの中に捨て置かれている状態にあります。すでに学術的な調査がなされ、観光資源としても活用されているアヌラーダプラやポロンナルワ(いずれも古都)の遺跡群など、ごく一部を除けば、スリランカでは研究者や予算の不足、自然の障壁、戦乱などのさまざまな理由から、遺跡の調査はほとんど進んでいないのが実状なのです。それだけではなく、開発の進む地域にあっては、遺跡は絶えず盗掘や破壊の危機にさらされています。その背景にはやはり貧困や住民意識の問題があり、このままでは多くの未知の遺跡が、調査もされぬうちに破壊されるという最悪の状況が進みかねません。

 私たちは、このような現状にあるスリランカの遺跡を、何とかできないかと考えて、この事業を計画しました。調査が困難な現地の人々に代わって、あるいは協力して調査を進め、少しでも早く明確な文化遺産として世に導き出すことはできないか。また、住民の意識向上をもたらすことで、これ以上の遺跡破壊をくい止めることはできないだろうか。そう考えて、2008年のNPO設立以来、過去⒋回は同国中東部のジャングル地帯で探査を行い、大規模な仏教寺院遺跡を発見するなど大きな成果を上げましたが、前回の2016年からはさらに広大な密林の広がるヤラ地方にフィールドを転じ、小さな歩みを進めている次第です。

 今回の活動の場所となるヤラ国立公園内の密林は、同国中央高地から南東へ流れ下るクンブッカン川の南側に広がり、南東海岸に近いごく一部の区域は世界的にも有名なサファリの名所として観光客に開放されています。しかし、大半は住民も観光客も立ち入りできない厳格な自然保護区として固く閉ざされ、開発も免れているために、ゾウやヒョウ、クマ、シカ、イノシシ、ワニなど、たくさんの野生動物が生息し、そうした大自然に守られた形で、古代の遺跡も未発見・未調査のまま数多く埋もれているのです。私たちは特別許可を得てそこに入域します。

 この計画は「広く一般市民の力を集めて、南アジア諸国に残る未発見・未調査遺跡を探検調査し、研究や保存のための啓蒙活動を行う」というNPOの設立趣旨に基づいて実施するもので、日本では初めての「NPOによる探検隊」という試みと、民間団体による国際協力の新たな形を追求することを目指しています。

 こうした私たちの新しい取り組みに、皆さまのご理解をいただき、ご支援を賜りますよう、お願い申し上げる次第です。   

 

【事業の具体的目標と方法】

Ⅰ.クンブッカン川南岸のヤラ国立公園内に残る未調査の「タラグルヘラ遺跡」を再発見し、調査する。

「タラグルヘラ遺跡」(Thalaguruhela Ruins)は、いまから約百年前の1920年ごろに英領セイロンのイギリス人陸地測量部隊が発見し、「1インチ=1マイル地図」に載せた遺跡だが、以後一切の実地踏査も行われないまま放置され、ジャングルに埋もれている。現在の「5万分の1地図」にも踏襲されている記載によれば、南北1.5キロ、東西1キロほどの小さな山塊(標高815m)の各所に仏塔や岩窟寺院、建造物跡、沐浴場などの遺跡があるとされ、さらに多くの未発見遺跡が残っている可能性がある。

自然保護区の北の境界をなすクンブッカン川(Kumbukkan Oya)から遺跡地点までは、最短で5キロほどの距離しかないため、前回の2016年には北西側の最奥集落のマーリガウィラ(Maligawila)からその最短個所を目指してジャングルに入り、川の左岸にベースキャンプを設営した。そこから密林中にアプローチルートを開いて南の山塊に至り、探査に着手する予定だったが、密生する有刺植物などに接近を阻まれ、3度の偵察の末に山塊の北端に達したのみで、本格的な探査には移れないまま活動を中断せざるを得なかった。

今回は、入域拠点を目標の真西側、自然保護区事務所のあるガルゲー集落(Galge)に置いて、新ルートでジャングルに入り、目的地により近いクンブッカン川右岸にベースキャンプを設ける。そこからさらに前進キャンプ設営を前提としてタラグルヘラ山を目指し、ベースキャンプからの補給と人員交代を行いながら、日数をかけた探査を実施する。

ガルゲー集落からベースキャンプまでの移動と物資の輸送にはトラクターを用いるが、そこから前進キャンプまでは、アプローチルート開拓と併せての徒歩移動、運搬となるため、必要な人員をガルゲー集落で雇用する。前進キャンプ設営後は、山塊の密林斜面や頂上露岩部などを隈なく探査して遺跡発見に努め、発見に際しては、GPSなどによる位置の確認、簡易測量、表面採集、写真撮影、スケッチなどにより必要データを収集する。

【現地活動の日程】

7月30日  先発メンバーがコロンボ到着。先発メンバーは現地政府考古局、日本大使館などに挨拶。調査現地に先乗りし、ガイド雇用などの最終調整、食糧・装備の買い出しなどを行う。

8月 4 日  メンバー全員がコロンボに集合。出発準備を整える。

8月 6 日  考古局車両およびチャーターバスでコロンボ出発。ブッタラを経て入域拠点のガルゲー集落へ。翌日にかけて同行ガイド、ポーター、炊事夫、自然保護区レンジャーなどとの打ち合わせ。ブッタラの宿もしくはガルゲーでのテント泊。 

8月8日  トラクターでガルゲー発。クンブッカン川右岸にベースキャンプ設営。

8月10日 タラグルヘラ遺跡(山塊)へのルート偵察開始。2日ほどでルート工作、その後、前進キャンプ設営。以後、第1次の探査活動に入る。

※探査はベースキャンプから現地ガイド、自然保護区レンジャー、考古局員、傭員らとともに、前進キャンプに移動。連日山塊の密林斜面や露岩頂上部などで遺跡発見を試み、発見遺跡ごとに簡易測量、撮影等を行う。またベースキャンプにはレンジャーや傭員らとともに隊員数名が残り、物資補給や連絡の中継などに当たる。

8月16日  第1次の探査を終え、ベースキャンプ集結。調査の総括と一部隊員の引き揚げ。

8月17日  必要人員が前進キャンプに移動。第2次の探査活動開始

8月24日  この日までにタラグルヘラ遺跡探査の終了を予定。ベースキャンプを撤収し、ガルゲーに引き上げる。

8月25日  隊を現地解散し、各自帰国へ。

 

 

【事業の予算計画】

費  目

内         容

金額(円)

準備活動費

渡航費

現地交通費

滞在費

装備費

食料費

医薬品費

人件費

通信費

交際費

保険費

予備費

報告書製作費

スリランカ現地での事前交渉の渡航費等

渡航費(航空運賃等)

公共交通機関及び車両チャーター費等

都市圏および現地村落宿泊費、食費等

調査機材および野営装備等

野営期間等の自炊食料費

医薬品、害虫対策費、毒蛇血清費

ガイド、ポーター等現地要員雇用費

現地携帯電話購入費等

考古局員、現地住民との交際費

保険加入費 10人×平均10,000円

 

     2017年春発行予定

     250,000

  1,107,000

     160,000

    225,000

    350,000

    100,000

      60,000

    204,000

      10,000

      60,000

    100,000

    200,000

    700,000

 合 計

 

3,546,000円

 

【事業従事メンバー(隊員)の構成】

 

■派遣事務局   特定非営利活動法人 南アジア遺跡探検調査会

 本部所在地: 〒176-0012東京都練馬区高野台1-21-6-705

 電話& FAX : 03-3996-8140   E-Mail: sarers-1@jcom.home.ne.jp

 ホームページ:http://npo-sarers.org/

■留守本部・連絡事務局

 境 雅仁(南アジア遺跡探検調査会理事)

     電話;042-758-1744    携帯:090-2205-2964   E-mail: busou@bc4.so-net.ne.jp

 武内 勲(南アジア遺跡探検調査会監事)

          電話:03-3621-3983 携帯:090-9689-0412 E-mail: takeuchiisao130@yahoo.co.jp

 

隊 員

岡村  隆 (隊長)

NPO南アジア遺跡探検調査会理事長。法政大学探検部OB。地平線会議設立同人。法大モルディブ諸島調査隊隊長(1969)、同第1次スリランカ密林遺跡探査隊隊長(1973)、同第6次隊(1993)隊長を務めたほか、第2次隊(1975)、第5次隊(1985)に参加。NPO設立後は2010年スリランカ密林遺跡調査隊隊長、2016年同隊総隊長。ほかにモルディブ諸島遺跡調査(1983,1994)など。西武文理大学非常勤講師、関野吉晴グレートジャーニー事務局なども歴任。著書に『モルディブ漂流』(筑摩書房)、『泥河の果てまで』(講談社)、『狩人たちの海』(早川書房)など。

▼電話&FAX:03-3996-8140 携帯:090-2919-6359  在スリランカ時 : +94-76-169-3300 E-mail:sarers-1@Jcom.home.ne.jp

 

甕 三郎(副隊長、装備・輸送担当)

NPO南アジア遺跡探検調査会副理事長。(株)玉屋勤務。法政大学社会学部社会学科卒業。法政大学探検部OB会前会長。1976年ユーラシア・アフリカ大陸18ヶ国踏査、1996年チリ環境調査、1997年中国大連大気汚染調査、2002年カンボジア気象環境調査、2004年シリア水資源管理などを行い、多くのODA関連業務に従事。2010年スリランカ密林遺跡探査隊(ワスゴムーワ自然保護区)副隊長。

▼電話:090-1505-9336   E-mail : s.motai@nifty.com;

 

松山弥生 (渉外担当)

NPO南アジア遺跡探検調査会理事。神奈川県茅ヶ崎市立小学校教諭。1997年、横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了後、青年海外協力隊スリランカ派遣日本語教師(1997~99)、スリランカ・ワジラスリ孤児院でNGO活動(2001~02)。当NPOでは2009年および2010年派遣のスリランカ密林遺跡調査隊(ワスゴムーワ自然保護区)に続けて参加。その後の隊派遣時もコロンボでスリランカ当局との折衝に従事し、2016年にはヤラ・タラグルヘラ探査隊にも参加。著書に『スリランカ 人々の暮らしを訪ねて』(共著、段々社)など

▼E-mail : yayoi841matsuyama841@ezweb.ne.jp

鈴木慎也(調査担当)

NPO南アジア遺跡探検調査会会員。東京工業高等専門学校一般教育科助教(歴史学・考古学)。日本オリエント学会、日本西洋史学会、日本社会科教育学会会員。2006年、東京学芸大学教育学部環境教育過程文化財科学専攻卒業、2009年、千葉大学大学院教育学研究科社会科教育専攻修了(修士 教育学) 、2012年、千葉大学大学院人文社会科学研究科文化科学研究専攻 単位取得満期退学。2003年より公益財団法人中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の発掘調査、遺跡の分布調査に従事。2017年にはスリランカにおける主要遺跡の踏査を実施。

▼E-mail : s_suzuki@tokyo-ct.ac.jp;

 

木村亮太  (学生隊長、食糧担当)

NPO南アジア遺跡探検調査会会員。拓殖大学商学部経営学科4年。拓殖大学探検部所属。2014年インドネシア・スマトラ島オランウータン調査など。スリランカ密林遺跡探査隊2016隊員。

▼E-mail : ryotas.soccers@gmail.com

 

吾郷章次  (医療担当)
NPO南アジア遺跡探検調査会会員。日本大学文理学部地理学科3年。日本大学探検部所属。スリランカ密林遺跡探査隊2016隊員。
▼E-mail : ts_aeru@yahoo.co.jp

 

橋富啓嘉 (装備担当)
NPO南アジア遺跡探検調査会会員。日本大学文理学部3年。日本大学探検部所属。スリランカ密林遺跡探査隊2016隊員。
▼E-mail : hashitomi3144@i.softbank.jp

 

中森あさひ (医療担当)

NPO南アジア遺跡探検調査会会員。法政大学法学部3年。法政大学探検部所属。スリランカ密林遺跡探査隊2016隊員。

▼E-mail : 0zj2v.2z723011k@ezweb.ne.jp

 

石田康太朗

NPO南アジア遺跡探検調査会会員。拓殖大学工学部情報工学科2年。拓殖大学探検部所属。

▼E-mail : straycat.12.sa2@gmail.com

 

※スリランカ側隊員

スリランカ政府考古局からT.M.C.バンダーラ氏ら探検調査課スタッフが5名ほど、自然保護局からレンジャー2名、その他、現地雇用のガイド、ポーター、炊事夫ら6名がともに行動します。

 

 

【探査地域の概要】

1.スリランカという国

 インド洋の島国スリランカ(セイロン島)は、国土面積が65,600平方キロと北海道より少し小さく、総人口は2048万人(2013年推計)で、首都は最大の都市コロンボ近郊のスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテに置かれている。

 島の気候はインド洋のモンスーンの影響を受けるため、大きく二つに分けられ、北部から中央東部および南東部にかけての全土の約4分の3が「ドライゾーン」で、中央山岳地帯から南西海岸にかけてが「ウェットゾーン」と呼ばれる。ドライゾーンは一般に微高地と平地で、古来、水田稲作と焼畑農業が営まれてきたが、北東モンスーンの時期(11月~3月)にしか雨が降らないために貯水池灌漑システムが不可欠で、シンハラ王朝歴代の王は灌漑設備の整備に多くの力を注いできた。一方、ウェットゾーンは北東モンスーンの時期だけでなく、南西モンスーン(5月~9月)にも降雨があり、湿潤なために、近世以降は紅茶、ゴム、ココナツのエステートや、天水による水田稲作が発達し、人口密度も高く(総人口のおよそ4分の3がウェットゾーンに居住)、大きな都市の多くがこちらに集中している。

 現在、スリランカの人口の74%を占めるシンハラ人は、その祖先を遡ると、北インドを故地とするアーリヤ系民族であるとされ、言語もインド・ヨーロッパ語系であるが、歴史を通じて南インド諸民族との混血が進み、形質人類学上の区別は困難となってきている。

 古代シンハラ王朝期には、上記ドライゾーンを中心に文明が栄え、貯水池灌漑農業が発達するとともに、各地に数多くの仏教寺院が建設された。しかしその間、南インドからはドラヴィダ系タミル人の侵入が相次ぎ、シンハラ王朝はタミル人との抗争を繰り返しながら次第に南部へ押されていった。そして最後にはウェットゾーンである中央高地のキャンディに王都が移される一方、北部や東部にはタミル人が定着するに至った。13世紀を境として、ドライゾーン文明は崩壊し、この地方は次第にジャングルの海に呑み込まれていったのである。

 その後、16世紀初めのポルトガル人による植民地化を皮切りに、スリランカはオランダやイギリスによる植民地支配の辛酸をなめさせられた。1815年にはイギリスによってシンハラ王朝最後のキャンディ王朝が滅ぼされ、インドに追放された王に代わって英国総督が、タミル人地域も含む全島支配者となった。第二次世界大戦後の1948年、英連邦内の自治国となり、ようやく植民地支配からの独立を勝ち取ったスリランカは、その後は社会主義政策の試行や多様な外交展開を通じて新生国家の道を歩み始めた。しかし、1980年代に入って民族紛争が頻発し、25年以上にわたる内戦状態が続いたことは周知の通りである。内戦は2009年5月、政府軍の軍事的制圧によって終わったが、国内避難民の処遇や、長年の戦闘によって生じた根深い民族対立感情などの問題はまだ解決されたわけではない。また現在は、中国の著しい進出が政治上の対立を生むなど新たな不安定要素も生じているが、そうした諸外国の援助も得つつ、内戦の間に疲弊した財政の立て直しや民族問題の解決、近代化が急ピッチで進められているのが実状である。

 

2.ヤラ国立公園

 私たちが探検調査を予定しているヤラ国立公園は、別名をルフヌ(ルフナ)国立公園とも称し、スリランカ(セイロン島)の南東海岸に接して、北をクンブッカン川、西をブッタラからカタラガマ、ティッサマハラマを結ぶ国道で囲まれている無人の密林地帯である。総面積は1259平方キロ、行政上はモナラーガラ県とハンバントタ県を跨いで広がり、自然保護局はその全体を5つのブロックと「厳重自然保護区」を合わせた6ブロックに分けて管理している。このうち南側に位置する「ブロックⅠ」のみは、サファリのために限定ルートを通る形で入域が認められているが、他の5ブロックは地元住民も含めて人の出入りが厳しく制限されている。

 そのため、この地域は近年スリランカ各地で進んでいる開発からも免れ、手つかずのジャングルにはゾウやヒョウ、クマ、シカ、イノシシ、ワニなど、たくさんの野生動物が生息して、一説にはスリランカに生息する86種の哺乳類、427種の鳥類、さらに無数の爬虫類のほとんどがここに棲むとも言われている。

 しかし、今でこそこのように大自然が地表を覆い、人の営みの歴史など感じることもできない地域だが、ここには13世紀のころまでは高度に発達した貯水灌漑技術によって豊かな水田地帯が広がっていた。北部のアヌラーダプラを首都とした古代シンハラ王朝の時代から、ルフナと呼ばれたこの一帯は、辺境ゆえに行政上も一定の独立性を保ち、仏教と貯水灌漑農業を2本の柱とする独自の文明圏を築いていたとされている。

 その一方、前述したようなシンハラ王朝史の過程では、インドからのドラヴィダ勢力の進入や内乱などで首都を追われた王侯僧侶や軍隊が、このルフナ地方に何度も落ちのび、ここで勢力を蓄えて再び北部へ打って出るという経緯が繰り返されたため、中央政権との間には一種緊密な関係もあり、史書にも頻繁に登場する重要な地域でもあった。

 また考古学的には、周辺で発見される遺跡から、伝統の上座部仏教のほかに大乗仏教や金剛乗系の密教も栄えたことがわかっている。スリランカでは大乗仏教や密教は12世紀のパラクラマ・バフ大王の「仏教粛正=上座部の国教化」によって滅び去ったため、その実態は未解明な部分が多いが、ここにはその痕跡が多く残され、世界の仏教史や他の学問分野にとっても貴重な資料の宝庫と目されている。

なお、前述のように、島の北東部のドライゾーン文明は13世紀を境に崩壊していくが、このルフナ地方の文明もそれと軌を一にした。戦乱や貯水灌漑システムの荒廃などで人々の生活基盤が失われた結果、この地域からも人が消え去り、その歴史の痕跡も、やがて地表を覆うジャングルに呑み込まれていったのである。

そして、この地方に再び人が戻り始めた19世紀以降も、イギリス植民地政府がここの広い区域を自然保護区として残し、その後の独立政府もそれを引き継いだため、ここには野生の動植物とともに無数の遺跡も手つかずのまま残されることとなった。大自然に守られて破壊を免れた代わりに、研究もされない遺跡が無数に眠る「考古学上の空白地帯」がこうして出現したのだ。私たちは今回の探検を一里塚として、そこに少しずつでも科学の光を当てていきたいと考えている。

 

【調査する遺跡の概要】

 これまでの調査経験から、この地域に残る遺跡を想定すると、その大部分を占めるのはやはり仏塔を中心とする仏教寺院遺跡と、用水路を伴った貯水池などの灌漑施設遺跡である。寺院遺跡の多くは密林中の孤立岩丘の上や麓に残っている。露岩上のものは傾斜地に石材などで擁壁を築いて土台や敷地を作り、その上に石材や煉瓦、木材、土材などで建造物が建てられたものらしい。吹きさらしの露岩上にあるため風化が激しく、盗掘にも遭いやすかったことから、現在ではほとんどが崩壊風化して本来の形状をとどめない。また岩丘の麓部分には自然の洞窟や窪みに手を加えた岩窟寺院も多く見られ、破壊された仏像や垂直岩壁に彫られた磨崖仏などが見つかることも多い。一方で平地に建てられた寺院の遺跡は、上部こそ崩壊しているものの、林立する石柱や石垣の土台、石壁など地表に残る建造物遺構の調査によって寺院の敷地形状や仏塔、仏堂、布薩堂などの建造物の性格がわかるものが多い。水利遺跡、なかでも貯水池跡は各所に見られ、崩壊した石積みの堤防や高度な土木技術を偲ばせる石造の排水溝や水量調整槽、暗渠式水路の跡などが発見できる。しかし、これらのほとんどは一部の村人がその存在を知るだけで完全に放置され、発掘の必要性が明瞭な重要遺跡についても保護・保存の手立てすらとられていないのが実情である。従って、私たちの調査は、まず各遺跡の発見、位置確認と記録、登録、地表調査によるデータ収集、重要度の把握、保存の必要性の提示といった一連の目標のもとに行われることになる。